ジムに通っていた

アレハ、何年前だったか?、一宮市の叔母を迎えに行き又送って行っていました。其の叔母を私は見捨てたのです。

 

母は女5人男2人の長女でした。年子の兄は海軍の兵隊でしたがレイテ島だかの南方で戦死したのでした。母和枝は大正10年の春に生まれたのです。昭和7年生まれの妹を小学校に連れて登校していた世代なのでした。母と昭和7年生まれの叔母との間にもう一人妹が居たのですが、幼くして急死しているのです。母和枝がオンブしていると、急に痙攣を起こしたので母親の▪たかを▪私の祖母の元に渡しに家に帰ったと聞いていました。

 

母の妹3人は成人となりました。皆、母和枝をネェチャンと呼んでいました。一番下の叔母は私とは7才しか違わないのです。

其の上の叔母と私は12才違いなのです。上の美容師叔母が10才頃に叔父が結婚したのでした。明治33年生まれの祖母は長男が戦死だったので恩給を其れなりに受給していたのです。

母の下の方の妹二人は手に職を付けて美容師としての人生ナノです。私と12才違いの叔母は一人しか子育てしていない為か、子供達の父が巻き込まれた「事件」の解決には弁護士が助けにナルのかで私一人でソノお世話に為った弁護士さんを見つけたのでした。。私は妻だったので様々な郵便物が届いていたのです。先ず弁護士さんを探して以降にあま市の叔母夫婦から聞いた事務所に先ず一人で行き相談しました。その後弁護士が大勢いる所を其の事務所から教えて戴いたのです。この時には私が一人で車の運転をして行動したのでした。

あま市の叔母夫婦は、一宮の叔母の夫の実家は弁護士との付き合いがアル家で義叔父と叔母にも相談する様に言われたのです。母和枝と一宮の叔母は特に仲がよかったのです。私と弁護士事務所に同行で情報を得て、4人の子育をしている私に大金を請求したのでした。母和枝も私に大金を要求したのでした。母和枝の考えもあって私の姉夫婦にも私は言われるままに支払いました。姉夫婦の当時住んでいた土地は父が200坪贈与したのでした。その後義兄は土地管理にシクジリ私抜きで母和枝、私の夫、姉夫婦の4人だけで話し合ったのでした。後年母和枝は私を責めました。未だ3人シカ子供は居なかった?、、記憶がアヤフヤ。我が子の世話があるからか、私は姉夫婦の土地の件に関しては関知しない立場となっていた。私にしたら納得でき無い事柄でした。

姉の娘とは私は交流を止めました。込み入った話を私が数年前も出来るものではなかったのです。私と子供達の父とは33年前に離婚しているのです。

義叔父は耳が少し不充分でした。弁護士事務所に行く時に私が名古屋市内から一宮市に迎えに行き中区の弁護士事務所迄同行していたのです。途中に昼食をして貰って、又一宮まで送って行く。ソシテ、酒をイッパイしながら、堂々巡りの会話をする義叔父。髪結いの亭主ソノモでした。

子供達が待っているから早く帰りゃぁ、との想いやりある言葉なんてかけて貰った事はなかったのです。ソノ息子▪従兄弟は私が大金を脅迫的に払わされたことも全く聞き及んでいなかったのでした。アルトキ一宮の従兄弟と初めて電話して彼の両親とのコミュニケーションは密ではない感じでした。父親も息子も耳が遠かったのです。義叔父とソノ息子は私の従兄弟の間柄です。彼は現在60才を越しました。其の電話でヤタラ私を軽く扱う従兄弟でした。叔母の家族関係や三回も嫁が代わった従兄弟。幼少より出生に悩んだ私です。深く考える癖がアル私です。思想が同士の間柄でも私とはお粗末な人間関係ナノです。義叔父は只一人の孫との対面を望んだそうだが叶わなかった。義叔父は長い闘病生活後旅立った。従兄弟からの年賀状に其の旨記載トイウ報告でした。

其の叔母を私は一宮まで迎えに行き片道30分カカル道のりです。故義叔父の育った山王方面をドライブしたし、元居住区に有るジムにも連れて行ったお人好しな私なのでした。

 

ケロット自分の行いを忘れて電話してくる、私と12才違いの叔母に「電話してこないで!」と云い放ってから何年経ったか?、、。忘れてしまいました。

 

12才違いの叔母は耳が遠い旦那と息子とのコミュニケーションは相当適当で有ったのだと思う私です。